震災の思い出② ― 2012年01月17日 08:23
今日1月17日は、阪神淡路大震災がおこった日です。もう17年前の出来事になるのですね。
当時私は、神戸市に隣接する市にある高齢者施設に勤務していました。
震災の被害は受けませんでしたが、影響はありました。
震災の周辺にいたものとして、何らかの記録を残しておくべきかも・・という思いもあり、少しずつ記憶を辿ろうと思います。
大きな思い出としては
・火葬場がいっぱい (昨年の1月17日の日記に書きました)
・現地に行き、被災高齢者の緊急受け入れ
・そしてその方たちのその後
・訪問入浴のボランティアとして現地へ
・個人的に、物資の仕分けのボランティアに参加
・・・といったあたりでしょうか。どれも、今の私の価値観に大きく影響しています。
被災高齢者の緊急受け入れとその後については、今思えば稚拙な関わりをしてしまったと思っています。
神戸の避難所から連絡を受け、7人の高齢者を車でお迎えに行きました。緊急入所です。
7人の事前情報は全くなし。生活相談員(当時は「生活指導員」という名称でした)だった私が、現地で判る限りの情報を聞き取って避難所からFAXし(当時はメールなどはなかった)、それをもとに、私たちが神戸から施設に戻る間に介護職・看護師・栄養士たちが準備を整える・・という手はずです。
慌ただしくも受け入れが無事完了しました。
・・・・と思っていたのは、こちらだけだったのだと思います。
私は、彼らを施設で緊急受け入れするのが当然と思っていましたし、行政からの依頼でしたし、震災後の緊迫した雰囲気の中、それしか選択肢はないと思っていました。
でも振り返れば、私は、7人の気持ちを聴きませんでした。これからどうしたいかも聴きませんでした。
地震が起こるまでは、それぞれが自宅で生活をなさっていたことに思いを寄せませんでした。
当時20代の私、そして「措置の時代」の価値観のもとで仕事をしていた私にとって「高齢者」は「保護・援助の対象」だったのです。
なので、被災高齢者を施設で受け入れ、「安全」が確保された時点で完結してしまい、彼らと「次のステップ」を考えることに思いも及ばなかったのです。
今の私ならわかります。相談員としての本当の仕事はそこからスタートするのだと。
これからどうしたいのか、自宅に戻りたいのか、それは無理でも神戸にもどりたいのか・・・地震で一瞬にして失われたものやこと、寸断されてしまった人生や生活について聴き、そしてこれからのことを一緒に考えていくのが私の役目だったはず。
でもそこに至らず、「受け入れること」が「私の仕事」になってしまったことを、心から悔やんでいます。
もちろん、その後自分で次の住処を見つけて施設を出て行かれた方もおられますが、それは私がサポートした結果ではありません。
7人中5人はそのまま施設で暮らされました。
華やかな神戸の町から田舎の施設に急に連れてこられて、何がなんだかわからなかったことと思います。たとえそれが、その時とり得る万全の安全策だったとしても。
あの時、きちんとお気持ちをお聴きしなくてごめんなさい。
あの時、神戸に帰って1人暮らしなんて無理に決まってると思ってしまてごめんなさい。
あの時、本当はどうしたかったのかお聴きしなくてごめんなさい。
あの時、ひとりよがりなサポートだったこと、本当にごめんなさい。
私の今の原動力は当時の方々に対する「償い」の気持ちが大きいです。あの時の「ごめんなさい」を繰り返さないために、あの時の「ごめんなさい」をなんとか帳消しにしたい気持ちが、私の社会福祉士としての活動の源にあります。
その後、一番お元気でお酒好きだったAさんが、「ここ(施設)に来て良かったと思っている。ここだからこそ長生きできたと思っている」とおっしゃって亡くなったことを聞き、少し安心するとともに涙がでました。
来られた頃はそうじゃなかったですよね。今から思えばまだお若かったです。自由にお酒を飲みに出かけたかったですよね。でも周りは田んぼしかなくて「牢獄みたい」っておっしゃってましたものね・・・。
最期ににそんな言葉を残してくださったこと、本当にありがとうございます。
「被災者」とか「高齢者」などと一くくりにしないで、「その人」に寄り添っていくことが大切なんですよね。
また来年、再来年・・・の1月17日に書きます。
20代で未熟だった私の、一生懸命ではあったけれども稚拙な、今から思えばもっと違う方法があったかも知れないと心の片隅がうずく思い出です。
当時私は、神戸市に隣接する市にある高齢者施設に勤務していました。
震災の被害は受けませんでしたが、影響はありました。
震災の周辺にいたものとして、何らかの記録を残しておくべきかも・・という思いもあり、少しずつ記憶を辿ろうと思います。
大きな思い出としては
・火葬場がいっぱい (昨年の1月17日の日記に書きました)
・現地に行き、被災高齢者の緊急受け入れ
・そしてその方たちのその後
・訪問入浴のボランティアとして現地へ
・個人的に、物資の仕分けのボランティアに参加
・・・といったあたりでしょうか。どれも、今の私の価値観に大きく影響しています。
被災高齢者の緊急受け入れとその後については、今思えば稚拙な関わりをしてしまったと思っています。
神戸の避難所から連絡を受け、7人の高齢者を車でお迎えに行きました。緊急入所です。
7人の事前情報は全くなし。生活相談員(当時は「生活指導員」という名称でした)だった私が、現地で判る限りの情報を聞き取って避難所からFAXし(当時はメールなどはなかった)、それをもとに、私たちが神戸から施設に戻る間に介護職・看護師・栄養士たちが準備を整える・・という手はずです。
慌ただしくも受け入れが無事完了しました。
・・・・と思っていたのは、こちらだけだったのだと思います。
私は、彼らを施設で緊急受け入れするのが当然と思っていましたし、行政からの依頼でしたし、震災後の緊迫した雰囲気の中、それしか選択肢はないと思っていました。
でも振り返れば、私は、7人の気持ちを聴きませんでした。これからどうしたいかも聴きませんでした。
地震が起こるまでは、それぞれが自宅で生活をなさっていたことに思いを寄せませんでした。
当時20代の私、そして「措置の時代」の価値観のもとで仕事をしていた私にとって「高齢者」は「保護・援助の対象」だったのです。
なので、被災高齢者を施設で受け入れ、「安全」が確保された時点で完結してしまい、彼らと「次のステップ」を考えることに思いも及ばなかったのです。
今の私ならわかります。相談員としての本当の仕事はそこからスタートするのだと。
これからどうしたいのか、自宅に戻りたいのか、それは無理でも神戸にもどりたいのか・・・地震で一瞬にして失われたものやこと、寸断されてしまった人生や生活について聴き、そしてこれからのことを一緒に考えていくのが私の役目だったはず。
でもそこに至らず、「受け入れること」が「私の仕事」になってしまったことを、心から悔やんでいます。
もちろん、その後自分で次の住処を見つけて施設を出て行かれた方もおられますが、それは私がサポートした結果ではありません。
7人中5人はそのまま施設で暮らされました。
華やかな神戸の町から田舎の施設に急に連れてこられて、何がなんだかわからなかったことと思います。たとえそれが、その時とり得る万全の安全策だったとしても。
あの時、きちんとお気持ちをお聴きしなくてごめんなさい。
あの時、神戸に帰って1人暮らしなんて無理に決まってると思ってしまてごめんなさい。
あの時、本当はどうしたかったのかお聴きしなくてごめんなさい。
あの時、ひとりよがりなサポートだったこと、本当にごめんなさい。
私の今の原動力は当時の方々に対する「償い」の気持ちが大きいです。あの時の「ごめんなさい」を繰り返さないために、あの時の「ごめんなさい」をなんとか帳消しにしたい気持ちが、私の社会福祉士としての活動の源にあります。
その後、一番お元気でお酒好きだったAさんが、「ここ(施設)に来て良かったと思っている。ここだからこそ長生きできたと思っている」とおっしゃって亡くなったことを聞き、少し安心するとともに涙がでました。
来られた頃はそうじゃなかったですよね。今から思えばまだお若かったです。自由にお酒を飲みに出かけたかったですよね。でも周りは田んぼしかなくて「牢獄みたい」っておっしゃってましたものね・・・。
最期ににそんな言葉を残してくださったこと、本当にありがとうございます。
「被災者」とか「高齢者」などと一くくりにしないで、「その人」に寄り添っていくことが大切なんですよね。
また来年、再来年・・・の1月17日に書きます。
20代で未熟だった私の、一生懸命ではあったけれども稚拙な、今から思えばもっと違う方法があったかも知れないと心の片隅がうずく思い出です。





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