『やさしく言いかえよう 介護のことば』 ― 2016年02月08日 08:42
介護系のwebサービスの開発の打ち合わせの場に社会福祉士として出席する機会があります(貴重なご依頼に感謝です)。
その場には、デザイナーとかソフトエンジニアとかそういう肩書の、とにかくクリエイティブな人々が集っています。
そこで交わされる議論には、センイ・ジッソウ・ワイヤーフレーム・ピクト・ステータス・・・などなど、つぶやきもつながりもしていないアナログな私には全く理解不能な語句が飛び交います(ちなみに、センイとは遷移、ジッソウとは実装、とな。漢字を教えてもらってもよく判りません)。
そこでの私はまさにアウェイ。いかに日ごろ自分の得意分野で生きているかを実感します。ずーっとそのアウェイの場にいると自分が無能な人間にさえ思えます。
とは言え、その場での私の役割は「そういうことが苦手な福祉系の人」としての率直な感想を述べることですから、堂々と「わからない」姿勢を見せることができるのは助かります。「わかったふり」をしないといけないとしたらそれはそれは苦痛なことです。
さて翻って、このことを我がホームグラウンドに置き換えて考えてみましょう。
「センイ・ジッソウ・ピクト・・・」云々の彼らの専門用語は、私たちにとっての「ADL・QOL・褥瘡・・・」くらい日常的な用語のようです。
私たちにとっては日常的であるそういった専門用語を、例えば、利用者さんやご家族に対して使ったとしたら。
私がアウェイと感じたように、いえ、きっとそれ以上に、冷たく、疎外されたような、事務的な、機械的な、心を通わすことのきっかえさえ拒絶されたような、そんな気持ちになることでしょう。
体位交換?・・・電池の交換じゃあるまいし。ましてやタイコウって・・・。
「身体の向きを変える」のほうが優しいよ。
食介?・・・食事介助と言われてもおいしくない。ましてやショッカイなんて。
観察?・・・私は金魚かヒマワリか。様子を見る、で良くないか?
排泄?尿意?便意?・・・トイレに行きたい、じゃダメ?
・・と、思っていたら(というか、研修などで話すこともありますが)、まさに待ってました!な本に出会いました。
『やさしく言いかえよう 介護のことば』(遠藤織枝+三枝令子編著 三省堂 2015年12月)です。書かれている内容は、海外の介護福祉士候補者たちが直面する「日本語の専門用語の壁」もさることながら、私たち自身の問題でもあります。
読んでいると私も意味が判らない用語もありました。私が介護職をしていた頃より「進化」しているような気がします。
なるほど・・と思ったのは音声だけでは2つの意味にとれる用語があることです。例えば「安全ベルトカイジョ」とだけ聞くと「介助」なのか「解除」なのかわからないと(141ページ)。
この本は、用語を分野ごとにまとめてあるし、索引はあるし、コラムもあるし、記録の書き方や敬語についての記載もあるし、たいそう参考になります。目次も見やすいです。
私は専門用語を学ぶことや理解することを否定しているわけではありません。
ただ、それらの専門用語を、平気で利用者さんやご家族に対して使うことの傲慢さに、温かみのない語感の専門用語を自ら発することで日常の穏やかな空気を乱していることの影響に気づかない鈍感さに、それらの言葉を受け止める側のしんどさに思いを馳せることができない無神経さに、それでプロと言えますか?と思うのです。
それは「専門用語の意味がわかる・わからない」の話ではありません。
私がかつて身内の「サービス担当者会議」(このネーミングもいかがなものかと・・)に「嫁」の立場で出席した時、なぜか専門職たちは専門用語を駆使して話を進めました。本人(要介護者)やその配偶者もいるのに、です。
私は、彼らの話している内容は理解できました。言葉の意味も判ります。でも不愉快でした。悲しい気持ちになりました。
置いてけぼりのような、全くこちらの立場に立ってもらえてないような、事務的な印象を受けたのです。
その時に「専門用語はやさしい言葉に言い換えよう」といわれることの趣旨は、単に「わからないだろうからわかりやすく言ってあげよう」ということだけではないと実感しました。
「専門用語の意味がわかる・わからない」の話ではなく、姿勢の問題なのです。
自分の使っている言葉を見直してみることは、自分の仕事に対する姿勢を見直すことです。特に私たちは、この本の前書きにも書いてありますが、メスも薬も使うことなく相手のしんどさを和らげようとしています。使えるのは「自分自身」だけ。
その自分から発する言葉は、時に癒しともなり、薬ともなるけれど、時に毒や刃物にもなることを強く自覚しておきたいと、この本を読んで改めて感じました。
その場には、デザイナーとかソフトエンジニアとかそういう肩書の、とにかくクリエイティブな人々が集っています。
そこで交わされる議論には、センイ・ジッソウ・ワイヤーフレーム・ピクト・ステータス・・・などなど、つぶやきもつながりもしていないアナログな私には全く理解不能な語句が飛び交います(ちなみに、センイとは遷移、ジッソウとは実装、とな。漢字を教えてもらってもよく判りません)。
そこでの私はまさにアウェイ。いかに日ごろ自分の得意分野で生きているかを実感します。ずーっとそのアウェイの場にいると自分が無能な人間にさえ思えます。
とは言え、その場での私の役割は「そういうことが苦手な福祉系の人」としての率直な感想を述べることですから、堂々と「わからない」姿勢を見せることができるのは助かります。「わかったふり」をしないといけないとしたらそれはそれは苦痛なことです。
さて翻って、このことを我がホームグラウンドに置き換えて考えてみましょう。
「センイ・ジッソウ・ピクト・・・」云々の彼らの専門用語は、私たちにとっての「ADL・QOL・褥瘡・・・」くらい日常的な用語のようです。
私たちにとっては日常的であるそういった専門用語を、例えば、利用者さんやご家族に対して使ったとしたら。
私がアウェイと感じたように、いえ、きっとそれ以上に、冷たく、疎外されたような、事務的な、機械的な、心を通わすことのきっかえさえ拒絶されたような、そんな気持ちになることでしょう。
体位交換?・・・電池の交換じゃあるまいし。ましてやタイコウって・・・。
「身体の向きを変える」のほうが優しいよ。
食介?・・・食事介助と言われてもおいしくない。ましてやショッカイなんて。
観察?・・・私は金魚かヒマワリか。様子を見る、で良くないか?
排泄?尿意?便意?・・・トイレに行きたい、じゃダメ?
・・と、思っていたら(というか、研修などで話すこともありますが)、まさに待ってました!な本に出会いました。
『やさしく言いかえよう 介護のことば』(遠藤織枝+三枝令子編著 三省堂 2015年12月)です。書かれている内容は、海外の介護福祉士候補者たちが直面する「日本語の専門用語の壁」もさることながら、私たち自身の問題でもあります。
読んでいると私も意味が判らない用語もありました。私が介護職をしていた頃より「進化」しているような気がします。
なるほど・・と思ったのは音声だけでは2つの意味にとれる用語があることです。例えば「安全ベルトカイジョ」とだけ聞くと「介助」なのか「解除」なのかわからないと(141ページ)。
この本は、用語を分野ごとにまとめてあるし、索引はあるし、コラムもあるし、記録の書き方や敬語についての記載もあるし、たいそう参考になります。目次も見やすいです。
私は専門用語を学ぶことや理解することを否定しているわけではありません。
ただ、それらの専門用語を、平気で利用者さんやご家族に対して使うことの傲慢さに、温かみのない語感の専門用語を自ら発することで日常の穏やかな空気を乱していることの影響に気づかない鈍感さに、それらの言葉を受け止める側のしんどさに思いを馳せることができない無神経さに、それでプロと言えますか?と思うのです。
それは「専門用語の意味がわかる・わからない」の話ではありません。
私がかつて身内の「サービス担当者会議」(このネーミングもいかがなものかと・・)に「嫁」の立場で出席した時、なぜか専門職たちは専門用語を駆使して話を進めました。本人(要介護者)やその配偶者もいるのに、です。
私は、彼らの話している内容は理解できました。言葉の意味も判ります。でも不愉快でした。悲しい気持ちになりました。
置いてけぼりのような、全くこちらの立場に立ってもらえてないような、事務的な印象を受けたのです。
その時に「専門用語はやさしい言葉に言い換えよう」といわれることの趣旨は、単に「わからないだろうからわかりやすく言ってあげよう」ということだけではないと実感しました。
「専門用語の意味がわかる・わからない」の話ではなく、姿勢の問題なのです。
自分の使っている言葉を見直してみることは、自分の仕事に対する姿勢を見直すことです。特に私たちは、この本の前書きにも書いてありますが、メスも薬も使うことなく相手のしんどさを和らげようとしています。使えるのは「自分自身」だけ。
その自分から発する言葉は、時に癒しともなり、薬ともなるけれど、時に毒や刃物にもなることを強く自覚しておきたいと、この本を読んで改めて感じました。






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